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日本人は、文字で遊ぶ。

日本人は、日本語の文字で遊ぶ。


日本語は3つの文字で成り立つ。

平仮名、カタカナ、漢字の3つである。

平仮名、カタカナを、暗記し、記述し、発音すること自体は、

それほど難しくない。

しかし、漢字が混ざると、難しくなる。

漢字字体の数量が多く、送り仮名も、複雑であったりする。

全て平仮名で良いのではないかと、考えることもある。

なので、漢字を忘れたときは、平仮名を用いる。

それでも特に問題ないのが、日本語の便利なところである。

しかし不思議なことに、

平仮名だけでは深い意味が伝わらないが、漢字を混ぜると伝わることが多い。


日本語の奥深さは、話す、聞くだけでは、感じとることが出来ない。

視覚で日本語を見て、はじめて、その奥深さを感じることが出来ると、

私は考える。

日本人は言葉を大切にする。

日本人は日本語を大切にする。

日本人は日本語を最大限に活かす。

日本人は日本語の能力を引き出す。


日本人は言葉遊びを、古くから行ってきた。

5、7、5、で、俳句を作ったり、

5、7、5、7、7、で短歌を作ったり、

聞き心地の良い日本語を作って、言葉遊びをしてきた。

これら以外にも、日本人は、多くの言葉遊びを行ってきた。

落語、講談、浪曲等も、それらのひとつだと、私は思う。


世界大学ランキングと呼ばれるものが、いくつか存在する。

世界に存在する大学を、様々な指標ごとに点数付けを行い、

その合計点でランキングするのである。

とある世界大学ランキングでは、英語で実施されている講義の割合がいくらか、

ということが、その指標に含まれているらしい。

この指標の点数により、日本の大学の点数が下がるのは、適切ではない。


日本は明治維新の頃に、西洋の学術用語を、日本語に訳した。

それ故、今日でも、大学の講義を、日本語で行うことが出来る。

しかし、それを行っていない国々では、大学の講義を、英語で行うらしい。

西洋の学術用語を、日本語に訳したことが、マイナスに作用することに、違和感を覚える。

学生が理解しやすいように、先人たちは、

多くの労力を注いで、学術用語を日本語に置き換えたはずである。

また、英語で講義が行われているからといって、その講義の価値が上がるとも考えにくい。


講義が英語で行われていることの利点は、母国以外で学ぶ留学生が、

授業を理解しやすいことである。しかしそのことにも違和感を感じる。

せっかく留学したのであれば、留学先の言語を深く理解して欲しいと思う。

さらにいうならば、留学先の言語で行われている講義を通じて、

留学先の言語を深く理解して欲しいと思う。


大学ランキングで評価されるべきなのは、

「独創的な研究内容」であると、私は考える。

日本人は、あまり復讐をしない。

復讐することは、美徳とされない。

耐えることが、美徳とされている。


日本人が復讐する際は、相当の理由が存在する場合である。

日本人の復讐で、最も有名なのは、赤穂浪士であると思う。

赤穂浪士は、「復讐」をした、とは言われない。

赤穂浪士は、「仇討ち」をした、と言われる。

赤穂浪士は、今も、昔も、日本人の心を惹きつける。

それは、普段、自分たちがやらない、自分たちが出来ない、

復讐を、彼らがしたからかもしれない。


赤穂浪士の話を読んだり、聞いたりする度に、

日本人が本気で復讐をしたら、とても恐いのかもしれない、と思う。

日本人は、耐えることを美徳とする。

日本人は、我慢することを美徳とする。

何か不満があっても、その場では耐えることを美徳とする。


人前では、

痛くとも、痛いと言わずに耐える。

辛くとも、辛いと言わずに耐える。

悲しくとも、悲しいと言わずに耐える。

悔しくても、悔しいと言わずに耐える。

寂しくとも、寂しいと言わずに耐える。

泣きたくとも、泣かずに耐える。

叫びたくとも、叫ばずに耐える。

理不尽でも、不満を言わずに耐える。

納得いかなくとも、無言で耐える。


けれどでも、一人になると、

痛いと言ってみたり、辛いと言ってみたり。

悲しいと言ってみたり、悔しいと言ってみたり。

寂しいと言ってみたり、泣いてみたり。

叫んでみたり、不満を言ったり。

無言ではなくなったり。


日本人は、耐える。

人前では、とかく、とにかく、耐える。

日本人は努力を好む。

日本人は努力することを美徳とする。


特にスポーツの世界で、天性の力により、メダルを取得した人よりも、

不器用で、環境に恵まれない中、メダルを獲得した人の方が、

称賛される。


努力を美徳とする、ということは、即ち労を美徳とすることに繋がる、と、私は思う。

つまり、目標に対して、労を以って達成する場合と、そうでない場合では、

前者の方が美徳とされるのである。


日本人は、労すること、特に実労をすることが、

当たり前であると考えている、と、私は思う。

日本人は、多様性を、受け入れやすい民族である。


日本人は、古来より、神道と共に生活をしてきた。

神道は多神教である。


神道は八百万の神々が存在し、生きとし生けるもの、

さらにいえば、万物に、魂や精霊が宿るとしたものである。


日本人は、多様性を受け入れやすいという考えに、異を唱える人々がいる。

その人々は言う。

「江戸幕府は鎖国をしたではないか」

「江戸幕府はキリスト教を禁じたではないか」

私はこのような考えは、正しくないと考える。


江戸幕府が鎖国をしたのは、貿易を管理するためである。

日本各地の藩が他国と貿易をし、富むことを防ぐためである。

決して、他国の人々を排除しようとした訳ではない。

キリスト教を禁じたのは、一揆を防ぐためである。

キリスト教を通じて、一揆が発生するのを防ぐためである。

キリスト教そのものを排除しようとした訳ではない。


日本人は、頭ごなしに、他国や他民族、他宗教を排除することは無い。

日本人が排除する事柄には、必ず背景が存在する。


日本人とは、「労」を美徳とする民族である。

また「労」の中でも「実労」を美徳とする。

さらに言うならば、「無償の実労」が、最も美徳とされる。


日本は自国に対する寄付金が少ない国である。

自国に対する、ありとあらゆる分野の寄付金が少ない国である。

例えば大学への寄付金額を、他国と比較した場合、

特に米国と比較した場合、その差は特に大きい。

米国の寄付金額は圧倒的に多い。


しかし、視点を変えて、例えば災害が起きた場合、日本は必ずボランティアが動く。

ときに被災地域が、さばききれないほどに、ボランティアの人々が集まる。

それが早期の復興に繋がる。


私は、ボランティアは「無償の実労」であると捉える。

日本人は「労」せぬ者を、「善」としない。

例え寄付をした者であっても、「労」せぬ者は、完全な「善」とならはない。

故に日本人は、寄付ではなく、「無償の実労」をするため、

ボランティアをするのである。


「無償の実労」が最も美徳とされる日本は、良い国だと思う。

「関係1」以外で述べた以外にも、エピソードはたくさんありますが、

私は気付いたのです。

私の親は、支離滅裂なことを言う人です。

一本筋が通っていない人です。

そのときの気分で、物事を決めてしまうのです。

私の人生を左右するような、大きな物事についても、です。

エピソード「関係1」の以前に、そのことに薄々気付いていたので、

そんな親とは離れて暮らしたいと考え、

大学は親元から離れたところを選んだ訳ですが…


現在、親との関係は、良いといえるものでは無いと思います。

電話をしても、平行線の議論(といるものかどうか不明ですが)が続くだけです。

電話しても、直接会って話しても、疲れるだけです。


私と親、それぞれが、違った経験を積んで生きているので、

考え方が違ってくるのは当然だと、私は思います。

それを、お互いが、認識しているかどうかで、関係性は変わると思います。

私の考えは、肉親といえど、違った環境で生き、違った環境で仕事をし、

違った環境で得た交友関係があるわけですから、

各々、それぞれの考えに基づいて生きていけばよい、と考えています。

しかし、私の親は、そういう考えではありません。

「自分たちの考えが正しい」という、人達なのです。


つづく

世の中はマルコフニコフ則だと、

私は思う。


マルコフニコフ則とは、

有機化学の反応を捉えるときに、

用いられる考え方である。

主生成物と副生成物がどのようなものか、

を決定付ける法則である。

マルコフニコフ則を説明する言葉で、

最も一般的な言葉は、

「富めるものは益々富む」である。


私たちは、科学の上に成り立った社会で生活をしている。

その科学は、数学、物理学、生物学、地学、そして化学等に代表される、

基礎科学を礎として発展をしてきた。

私たちの社会はいつからか、気付かぬうちに、

基礎科学の法則に則って、動いている。

化学で例えるならば、私たちの社会は、巨大なビーカーで、

その中にいる私たち溶質は、溶媒という環境の中で、

化学に則った反応しかしない、否、出来ないのである。

富める者は益々富み、貧しいものは益々貧しくなる、

という反応以外、出来ないのである。


近年格差社会が、社会の大きな課題として取り上げられる。

しかし私は思う。

人間が科学の上に成り立った社会を捨てない限り、

格差社会は無くならない、マルコフニコフ則は無くならないと、

私は思うのである。

そのように感じている人は、ちらほらいるみたいです。

社会人で肩書の無い人はいないと思う。
みなさん、何かしら肩書があると思います。

これからいう肩書とは、
課長・マネージャー級以上の方を、
想像してください。

社会人になって10年弱になりますが、
社内外問わず、
多くの肩書ある人々と触れました。
尊敬出来る方もいれば、
そうでない人もいました。

私の尊敬出来る肩書ある人々は、
以下3つの力を持っている人が、
多かった気がします。
篩力 次力 隙力 の3つです。

篩力(ふるい力)
同時に進行する複数の仕事を、
適切な尺度で篩にかけ、
優先順位や、
人の割り振りを、
決めることができるスキル。
リーダー級の人が、
このスキルが無いと、
組織内の仕事にムラが生じる。

次力(つぎ力)
上手くいかなくても、
次の一手、さらにはその次の一手を
持っている、考えられるスキル。
失敗の原因を、
長時間考えることも必要だが、
組織の人材スキルが一定以上ならば、
失敗の原因は、議論しなくても、
皆分かっているはずである。
それよりも、次の一手を早く考え、
計画を素早く立てる事が大切である。
このスキルが無いリーダーは、
部下を怒ることしかしない、
最低のリーダーである。

隙力(すき力)
リーダーが完璧であると、
つまらないものである。
そのようなリーダーの組織は、
息が詰まる。
リーダーは、
多少弱いところがあるくらいが、
丁度良いと思う。

篩力 次力 隙力
私はこの3つが、必要だと思う。

親が思うように子は育たぬ

子が思うように親は動かぬ


私がこのことに気づいたのは、

20歳前後のときだったでしょうか。


私は自分の思い描いていた大学に合格出来ず、

重い、晴れない気持ちを持ちながら、

大学生活を過ごしていました。

せっかく大学に合格したのだから、

大学生活を楽しめば良かったのに、

入学した大学の環境に不満ばかり抱いて、

全く大学生活を楽しんでいませんでした。

そもそも自分の満足しない大学に入学したのは、

少なからず私の親にも責任があったため、

心底両親を責め続けていました。

私の親は、私が希望する大学への受験を許さず、

合格可能性の高い大学への受験しか許しませんでした

(私はそのとき既に一浪していたので、

親としては安心したかったのかもしれません)。

にも関わらず、私が大学に入学した後に、「今の大学が気に入らないなら、

もう一度受験をやり直しては?」と言い出したのです。

そのときはさすがに相当、怒りを覚えたものです。


つづく

持たぬ。
触れぬ。
集わぬ。

余計なモノは持たない。
必要なモノだけ、身近に置き、
大切に使う(お金は別です)

興味本位に、
いろいろなモノに触れない。
触れると大ヤケドをする場合がある。
目を奪われるものがあっても、
必要無ければ触れてはいけない。

皆が集うからといって、
同じ輪に入ろうとしない。
まずは輪の外から眺めるべし。
輪だと思っていたら、
罠だった、ということも有り得る。
積極的に輪に入る必要は無い。

持たぬ、触れぬ、集わぬ